読書共同体の再構築

読書共同体の再構築

政治を超えた理解、実践へ

東アジア出版人会議10年

読売新聞 2015年5月12日(火曜日)朝刊 文化欄

熊沢敏之

千年前に、紫式部がもし司馬遷の『史記』を読まなかったなら、『源氏物語』は書かれていなかったかもしれない。東アジア世界での書物交流は、これほどの時間の堆積と絶大な影響力をもっていた。それが、戦争の20世紀にすっかり途絶えてしまったのである。

いまから10年前、わが「東アジア出版人会議」が産声を上げた。大塚信一(元岩波書店社長)、加藤敬事(元みすず書房社長)、龍澤武(元平凡社取締役)という先輩諸氏が勇を奮って、会議の設立を提案したのである。

それはおそらく、長い交流の歴史が忘却されることへの反省を意味していただろう。これに、中国、香港、台湾、韓国という四つの地域の、人文書を主力とする出版人たちが呼応した。

だが、「読書共同体再び!」の標語とは裏腹に、私たちは互いの出版文化をあまりに知らないことを、おのずと自覚するようになっていった。この歳月のほとんどは、そうした相互理解の地道な努力に費やされた。

2011年には、『東アジア人文書100』という書誌を、日本語版(みすず書房)、中国語(簡体字・繁体字)版、韓国語版で共同出版した。こうして相互理解への欲求がまず形を得た。

年2回、国際会議での報告が他者の耳目にさらされるのは、だれにとってもプレッシャーである。合間の休憩はまた、評価の時間だ。ブロークンの英語や片言の各国語を駆使しつつ、いい報告には即座に反応が出る。そして、会議のヒーローは一同の認知を一挙に手に入れる。

この4月2日に開かれた私たちの公開シンポジウムでは、「電子読書の可能性――東アジア読書共同体を創出できるか」というテーマが打ち出された。もし、各地域の重要書目が相互翻訳され、電子的な環境を有効に使うことができるなら、人文書を読むための視界は大きく開けることだろう。

相互理解から相互実践へ。どうやら私たちは、10年・18回に及ぶ継続的な議論の目標、「東アジア読書共同体」の実現に、一歩近づいたのかもしれなかった。

しかし……。東アジア地域をめぐる政治的動向は、いまや確執を増幅させるばかりとなっている。お世辞にも好ましい情況とはいえまいが、各地域のメンバーはみな、それを大きな障害とは感じていない。お互いの「仕事」に敬意を払えるような認識と信頼と友情とが、私たちの紐帯をますます強めてくれるはず。それが共通の確信なのである。

人文知の未来は、どの地域でも「茨の道」となるだろう。だが、それを手放すつもりは毛頭ない。批評的視点と媒介的思考とは、私たちが「政治」に対する「文化」と言い慣わしてきたものの、ひとつの理想型を指し示すはずだからである。

(東アジア出版人会議会長、筑摩書房社長)