
韓国出版、情熱の現代史
韓国出版、情熱の現代史
本でつくるユートピア
金彦鎬著 舘野晳訳
熊沢敏之(筑摩書房相談役)・評
東アジア出版人会議――日中韓、台湾、香港という五つの地域の出版人からなる国際会議だ。二〇〇五年に発足し、今年でちょうど一○年になる。翻訳されたばかりの『本でつくるユートピア』の著者、金彦鎬氏を知ったのも、この会議でのことだった。
私が筑摩書房に入社したのが、一九七七年。その直前、観光旅行で初めて韓国の土を踏んだ。朴正熙政権のもと、厳しい統制が布かれ、出版の自由ばかりか、若者の長髪さえ禁じられていた。
東アジア出版人会議に参加し始めたとき、私の小さな思い出と韓国出版人たちの苦難の実体験が、うまく切り結ばなかった。彼らは声高に語らない。しかし、いかんせん経験値に落差がありすぎた。
韓国の現代史を理解しようとするとき、私たち日本人が念頭に置かねばならないエポックメーキングな年号がある。
○一九七二年…朴正熙大統領十月維新。
○一九七九年…朴大統領暗殺/全斗煥クーデター。
○一九八〇年…「ソウルの春」/光州事件/全大統領就任。
○一九八七年…盧泰愚、民主化宣言。
一九六八年に東亜日報社に入社した金彦鎬氏は、七五年に集団解雇に会い退職、翌年、ハンギル社を起こしたという。その言論・出版人としての目覚ましい仕事は、韓国の独裁者が過酷な言論弾圧に狂奔していた、この年代とぴったり重なっている。
『本でつくるユートピア』には、時代のなかで出会い、ともに本をつくった錚々たる著者の仕事がずらりと並んでいる。咸錫憲#ハムソツコン#(独立運動家)、宋建鎬#ソンゴノ#(言論人)、李泳禧#リヨンヒ#(社会評論家)、李五徳#イオドク#(教育者)、朴玄埰#パクヒヨンチエ#(経済学者)、安炳茂#アンビヨンム#(神学者)。いずれも、七〇年代に勇気ある言論活動によって投獄されたり、著作が発禁処分に遭ったりした、進歩的な思想家たちであった。
その苦難の一端に触れるだけで、胸が痛む。だが、現在の日本にあって、彼らの著作を実際に読み、時代的な感覚を共有することは容易なことではない。翻訳がなくテクストが読めないことも一因だが、七〇年代の韓国の文脈をどうしても体感できず、頭だけの理解に終始しかねないからだ。媒介項の欠落こそが問題だった。
そんなことを考えながら本書を読み進んでいたとき、マルク・ブロック『歴史のための弁明』(以下、『弁明』と略記)を翻訳出版(一九七九年)した際の叙述で、思わず立ち止まった。
訳書刊行の年、朴正熙大統領がみずからの腹心により暗殺される。その後、ほんの一瞬現れた「ソウルの春」も、あの光州の惨殺によって「歴史の絶望」へと変貌してしまう。そうした時代だった。
フランスの歴史家・ブロックは対独レジスタンスに加わり、一九四四年にナチスによって銃殺された。『封建社会』(一九三九・四〇年)などによってすでに名声を得ていたにもかかわらず、第二次大戦が勃発するや、五三歳ですすんで出征したという。まさしく「愛国者」として、フランスに殉じたのだ。『弁明』は、一九四七年に遺稿として出版された。
「植民地時代と分断、戦争によってこの国の歴史は苦渋を強いられるしかなく、その歴史の中で人生を営む民族の一人ひとりがあらゆる試練を経なければならなかった。こうした現代史の性格や本質を究明する一つの準拠として、私たちは民族主義史観を選択していた」という金彦鎬氏にとって、ブロックこそ困難な時代と格闘した「民族主義」者であり、『弁明』は「準拠」すべき遺言だった。
一九八一年くらいのことだったと思う。私が編集部に移って最初に企画しようとしたのは、日本で本格的に「アナール学派」の仕事を受け継ごうとしていた、二宮宏之氏の著作だった。アナール学派とは、ブロックとリュシアン・フェーヴルが一九二九年に創刊した雑誌『社会経済史年報(アナール)』にちなんで命名されたものだ。
「歴史学の対象は『生きた人間たち』そのものなのだ。この人間を便宜上身体のある部分、たとえば頭ではなしに腕や脚でつかまえても、……それを引っぱれば結局は人間全体引っぱることになる」(二宮宏之『全体を見る眼と歴史家たち』一九八六年)。こうして、二人の先駆者は実証主義に反対しながら、歴史の「全体性」を強く志向し、「生きた人間たち」の復元を求めたのだった。
このときブロックは、いわゆる「社会史」の祖として位置づけられた。『弁明』(一九五六年、岩波書店)の愛国者的側面はずっと後方に退いて、『封建社会』(一九七三年、みすず書房)の社会史としての先見性が前面に押し出された。
私は二宮氏の論文を精読し、一冊の単行本として目次を立てた。その企画表を見せたとき、氏はすこし微笑んで書斎に消えた。戻ったとき携えていたのは、私の目論見と寸分たがわぬ原稿の束だった。それはすでに、かなり変色し黄ばんでいた。こうして、私の企画などすっかり先を越されていることが判明した。原稿はさらに五年をかけて、先の『全体を見る眼と歴史家たち』として木鐸社から上梓された。
一九八〇年代、日本の人文書は最後の光芒を放って行き詰まった。韓国では違っていた。「八〇年代は本の時代だった。暴力的な権威主義的権力と相対する出版文化運動が激しく展開した。厳しい現実を克服するために、若者たちは本を読んだ」。『弁明』も『封建社会』(ハンギル社、一九八六年)も、この文脈で読まれたはずだ。
八〇年代の終わり、自力で民主化を勝ち取った韓国出版界のなかで、人文書の成熟はどのように進行したのか? 社会科学的な直接性ではなく、人文学的な媒介性をもち、しかも批評精神を失わない著作群の運命の時差を、いま見極める必要があるだろう。「本でつくるユートピア」のすこし手前で、立ち止まってみたいと思った。
出版ニュース 2015.08